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序  強大な魔法の力と清廉な精神でもって、この町を護ってくださっていた聖女クリスティーナさまが、邪悪な帝国の手で捕らわれた。  もちろん、正々堂々の戦いに敗れたわけではない。卑劣なる帝国は、私たち町娘やほかの聖職者を人質に取り、聖女さまに投降を迫ったのだ。  そうして囚われの身となった聖女さまが、町の広場を連行されていく。  両腕をひとつに束ねる革袋の拘束具――アームバインダーという名の厳重拘束具だとはのちに知った――を嵌められて、呪文封じの口枷を装着されて、家畜のように首輪のリードを引かれ、私たちの前を引かれていく。  足下がおぼつかないのは、つま先立ちを強制する特殊な拘束ブーツを履かされているからだろう。あるいは厳重拘束具のせいで、バランスが取りづらいのかもしれない。  だが、聖女さまは諦めていない。  悔しさをにじませながらも、毅然としたようすを失っていない表情が、そのことを物語っている。  聖女さまなら、これからひと月のあいだ行なわれる調教にも屈しないだろう。  それがどういうものなのか、私には知るよしもないが、帝国の女将軍の手による調教なんかに、けっして負けたりしない。  私は、そう信じている。  私以外の娘たちも、そのことをけっして疑っていない。  だが、その1カ月後、私たちが見たのは――。 前編  町娘と同僚を人質に取られ、抗うことができなくなった聖女クリスティーナは、彼女の活動の拠点たる町の教会で、帝国軍の女将軍イザベラと対峙していた。 「これより、わが帝国軍が接収した、町の庁舎へ連行する。その前に、これを着けてもらおうか」  一箇所に集められ、兵士の一団に剣を突きつけられ、ガタガタと震える町娘たちのさまを見せつけながら、イザベラが命じた。 「呪文封じの口枷だ」  イザベラに見せられたそれは、内側に革巻きの突起が取りつけられた革製猿ぐつわ。発声を抑制することで、呪文の詠唱を不可能にする装具である。 「おまけにこれは、この町の聖女さま専用に誂えさせた特別製だ」  イザベラがそう言うのは、口中に押し込める革巻きの突起に刻印された魔法陣のことである。 「その刻印の魔法陣がなんなのか、聡明なる聖女さまならわかるだろう?」  それもわかっていた。突起に刻印されているのは、魔力封印の魔法陣だ。  長い呪文詠唱の末に発動させる強力な魔法ならともかく、基礎的な魔法で消費される程度の微弱な魔力なら、その魔法陣に吸収されてしまう。  クリスティーナのような卓越した術者ならば、呪文封じの口枷を嵌められても、基礎的な魔法は呪文の詠唱なしに発動させられる。  だが、詠唱なしで扱える基礎魔法は、魔力封印の魔法陣によって奪われてしまう。呪文詠唱が必要な強力魔法は、発声を禁止されたら発動できない。  口枷を嵌められたら最後、護身術レベルの体術しか身につけていないクリスティーナは、神と民の敵と戦う術《すべ》を奪われてしまう。  だが、抜剣した帝国兵士に囲まれた町娘を前にしては、口枷装着を拒むという選択肢はなかった。 「くッ……」  口惜しげに唇を噛んでうめき、クリスティーナが告げる。 「ですがそのかわり、わたくし以外の聖職者や、娘たちには手を出さないと約束してください」  すると女将軍イザベラは、瞳に妖しい光を灯し、嗜虐的な笑みを浮かべた。 「もちろんだ。皇帝陛下と帝国正教会の神の名にかけて、私も私の軍も、罪なき女には何もしないと誓う」  その言葉を、クリスティーナが全面的に信じたわけではない。むしろ聖女の本能は、これは奸計であると警鐘を鳴らしていた。  だが、イザベラは彼女の神に誓った。皇帝とやらはともかく、クリスティーナの神と違うとはいえ、聖職者として神に誓った言葉を軽んじることはできなかった。 「わかりました。口枷を受け入れましょう」 「では、口を開けろ」  応えて口を開くが、イザベラは満足しなかった。 「もっと大きく、口を『あ』の形にするのだ」  言われて口腔の粘膜を晒すと、そこに魔力封印の刻印が施された突起が押し込まれた。 「ぁ、う……」  口中を占拠し、舌を下顎側に押しつけながら侵入してくる異物に、目を白黒させる。  同時にクリスティーナは、自らの内に常に存在する微弱な魔力が、霧消していくのを感じていた。  もちろん、魔力封印の刻印のせいである。  物心ついてから、いつも共に在ったものを失う喪失感。依って立つ軸を奪われる不安感。力の源泉を取り上げられる恐怖。  おまけに――。 「ぁあ(いや)……」  思わず漏らした声は、すでに言葉にならなかった。  もう、呪文を詠唱することはできない。  そうと自覚したところで、突起の土台部分が顔の下半分の皮膚に触れた。  その四隅に取りつけられたベルトが、耳たぶの上下を通って後頭部に回される。背後に控えていたイザベラの副官が、被ったいた聖女のベールをまくり上げ、ベルトを締め込む。  口枷本体の革が頬に軽く食い込み、口中の突起が固定された。  クリスティーナの主武器たる魔法が、これで完全に封じられた。 「うぅ……」  そのことを自覚し、くるおしくうめいたところで、ベルトのバックルに小さな錠前がかけられる。 「それは専用の鍵を用いなければ、けっして外せない帝国軍付き魔法師の手による魔法錠だ。まぁふだんの聖女さまなら、容易に解錠できるだろうが……」  わかっている。今のクリスティーナは、魔法を封印されている。そして魔法を封じられたままでは、自力で口枷を外すことはできない。  そうと思い知らされたクリスティーナの前に、新たな装具がかざされた。 「アームバインダー。帝国では、皇帝と国家に仇なす重罪人にしか使用されない厳重拘束具だ」  それは、開口部たる底辺部分にベルトが取りつけられた、二等辺三角形の革袋。その底辺から頂点付近にかけて、革紐の編み上げが設えられている。 「着けられたら最後、屈強な戦士でもいっさいの抵抗を封じられる代物だ」  アームバインダーを見せつけて告げてから、イザベラが副官にそれを手渡した。 「腕を後ろに回し、まっすぐ揃えろ」  町娘と聖職者を人質に取られているうえ、魔法を奪われた身では抗うことは不可能。仕方なく従うと、腕に三角形の革袋を被せられた。  そして袋の縁、底辺が二の腕の半ばに達したところで、指先が袋の頂点に突き当たる。  底辺の縁に取りつけられていたベルトが、左の腋から身体の前側に引き出された。  そのベルトが腋から胸へと斜めに引き上げられ、首の右側を通って再び背中へ。さらに右腋から引き出されたベルトが、最初のベルトと交差させられながら左の肩から背中へ。  身体の後ろで2本のベルトがバックルに留められた。 『重罪人にしか使用されない厳重拘束具だ』  この時点で、クリスティーナはイザベラの言葉が間違っていないと痛感させられた。  アームバインダーのベルトは胸の上で交差しているから、そのバックルを外さないかぎり、ずり落として脱ぐことはできない。  しかし、バックルを外すために必要な両手の指は、三角形の革袋の中。そこに閉じ込められた指は、けっしてバックルに届かない。  とはいえ、アームバインダーが本領を発揮するのは、まだまだこれからだった。  キュッ、キュッ……。  かすかに革どうしが擦れる音が聞こえた直後、手首のあたり締めつけられた。  キュッ、キュッ……。  その締めつけが、少しずつ前腕部をせり上がってくる。 (これは……)  革袋の底辺から頂点付近にかけて設えられていた編み上げ紐だ。  そうと気づいたときには、締めつけが肘近くに達していた。  キュッ、キュッ……。  締めつけから逃れようと、肘と肘をくっつけるように腕をすぼめるが、それでできた余裕のぶんだけさらに絞められる。  その結果、腕の可動域がさらに狭くなった。 「うッ(くッ)……」  そのことを悔いてうめいてもあとの祭り。  編み上げ紐の締めあげはついに革袋の底辺――今その部分が上側だが――に達し、最後に紐を固結びされ、余った部分を断ち切られてしまった。  もう、腕はまったく動かせない。  腕だけではなく、上半身全体が固められたように自由を奪われた。 『これを着けられたら最後、屈強な戦士でもいっさいの抵抗を封じられる代物だ』  まさしくそのとおりだ。  厳重拘束具に囚われたクリスティーナにできるのは、1本の棒のようにされた腕をわずかに背中から浮かせたり、上半身全体を揺すったりする程度。  だが、クリスティーナのために用意された装具は、それで終わりではなかった。  次に用意されたのは、教会の粗末な木製の丸椅子《スツール》。  それに上半身を拘束されたクリスティーナを座らせて、イザベラが奇妙なブーツを取り出した。  すねから足の甲の部分にかけて、ほぼまっすぐ。その状態を保つために、ヒールは細く長い。 「バレエ、という舞踊は知っているか?」  知っていた。実物を見たことはないが、交易のため訪れた商人から、帝国ではそういう舞踊があると聞かされていた。 「その舞踊には、演者がつま先立ちになる独特のポーズがある。これはその足の形を強制するブーツという意味で、バレエブーツと呼ばれている」  教会支給の質素な靴から、そのブーツに履き替えさせようというのだ。  アームバインダーに囚われた身を、副官に押さえつけられて椅子に座らされる。  履き慣れた靴を脱がされ、バレエブーツを履かされる。  その筒に足を入れたところで、クリスティーナはブーツの異形ぶりを痛感した。  つま先立ちを強制するヒールの高さのせいで、太ももの裏が椅子の座面につかないのだ。 (こんな靴を履かされて……)  まともに歩けるのだろうか。手が自由なときならともかく、上半身を固められたように拘束された状態で。  その不安は、立たされた瞬間に的中した。  いや、立つだけで難行苦行だった。  それは、クリスティーナの身体能力が劣っているからではない。 「ほう、バレエブーツを履いていきなり立てるとは……さすがは帝国を手こずらせた聖女さまだな」  イザベラが小馬鹿にするように告げた言葉は、半ば本音でもあるのだろう。  バレエブーツというものは、並の女なら立つことすら困難な、足の拘束具でもあるのだ。  そうと実感させられながら、最後の装具を取りつけられる。  呪文封じの口枷やアームバインダー、バレエブーツと同じ素材の首輪。  口枷とアームバインダーのせいで抗うことはもちろん、バレエブーツで逃げ出すことすらできないクリスティーナは、首に取りつける家畜の装具も甘んじて受け入れざるを得ない。  忸怩たる気持ちで首輪を嵌められ、顎の下に設えられていた金具にリードをつながれたところで、イザベラが宣告した。 「それでは、帝国に仇なす重罪人クリスティーナを連行する」  首輪のリードを引かれ、町を歩かされる。  アームバインダーで厳重に拘束され、腕でバランスを取ることができない状態で、立っているのがやっとのバレエブーツを履かされた足を運ぶ。  教会前の広場には、人質に取られていた町娘や聖職者が、解放されて集まっていた。  彼女たちは皆、厳重拘束姿で連行されるクリスティーナを、心配そうに見つめていた。なかには、両手を胸の前で組んで祈りを捧げる者もいた。  そのなかを、引き回されるのはつらい。肉体的な苦痛はもちろん、精神的にもきつい。  屈辱、羞恥、いや違う。  たしかに悔しい。恥ずかしい。だが、それだけじゃない。  神に特別な力を与えられ、町と人々を邪悪なる者から護る役目を委ねられた聖女たる自分が、今は町の娘たちに心配される存在になったことが口惜しいのだ。  とはいえ、今のクリスティーナは無力な存在。  口枷で魔法を完全に封じられて、帝国軍と戦う術はない。兵士ひとり程度なら応戦できる体術も、アームバインダーで封印された。さらに足にバレエブーツを履かされていては、幼い子どもにぶつかられただけで転倒してしまうだろう。  リードを引く副官に抗うこともできず、生まれたての小動物のような足取りで、教会前の広場を引きまわされる。 「この者は、偉大なる帝国に逆らう重罪人である!」  先頭に立つ役者出身の広報官が、よく通る声で告げる。 「その罪を糾《ただ》し身をもって贖《あがな》わせるため、帝国軍司令部の地下牢でひと月にわたり、将軍イザベラ閣下の矯正調教を受ける!」  クリスティーナ自身初めて聞かされることを、町の人々にふれて回る。 「イザベラ閣下の調教で、この者が悔い改めればよし。それでも改悛のようすが見られないなら、あらためて処刑を執り行なう!」  それには、イザベラの深謀遠慮があるのだろう。  すぐ処刑を執行すれば、町の人々には聖女としてのクリスティーナの姿が永遠に残る。聖女の記憶はやがて、反抗の希望の火となる。今は武力で抑えられていても、その火はいつか激しく燃えあがる。  だが、調教とやらに屈服したクリスティーナのぶざまな姿を見せれば、そうはならない。  もし調教に屈服しなくても、時間を置くことで、人々の聖女への思いが薄れることもある。  イザベラの真意を知らないクリスティーナは、そう考えた。  考えて、それでも調教に屈しないと心に決めた。  ひと月のちも凛とし続けて、命を絶たれたあとも人々の希望の光となるために。  それがけっして叶わぬ望みとは知らず、護るべき女たちの前を、聖女の務めを果たせず引かれていく。  おぼつかない足取りで、ヨチヨチと。 「んふぅ、んふ……」  呪文封じの口枷を嵌められて口呼吸ができず、鼻から弱々しく吐息を漏らしながら。 「んふ、んふ、んふ……」  歩みは遅いにもかかわらず、鼻呼吸が苦しくなってきた。  それは、バレエブーツのせいで、いつもと違う力の入り方をしているためか。それとも、上半身の動きを制限されているからか。  クリスティーナ自身にはわからないが、ともあれ苦しさを見せるわけにはいけない。  イザベラにも、彼女の部下たちへも、自分を慕ってくれる娘たちのためにも、聖女クリスティーナは毅然としていなくてはならない。  そう考えて、クリスティーナは努めて凛々しい表情を作って連行される。  教会前の広場から、町を南北に貫く大通りへ。  人質に取られていた娘や聖職者がいた広場と違い、そこは老若男女が入り乱れていた。  そのせいか、これまでと群衆の視線の性質が変わった。  娘たちや聖職者は、自分たちのせいでクリスティーナが囚われの身となったことを知っている。  だが、通りにいる人々は、そのことを知らない。彼ら彼女らは、頼みの綱だった聖女が、戦いに敗れ、あるいは敵わないと諦めて捕らわれたと思っている。  そのためクリスティーナを心配し無事を祈る気持ちより、落胆のほうが強いのだ。  とはいえ、そのなかでもクリスティーナは凛々しく表情を引き締めたまま引かれていく。  そうすることで、自分が希望の光となれると信じて。  しかし通りを進むうち、クリスティーナは心を折られそうな事態に遭遇した。  今は帝国軍が接収している元町庁舎に近づいたからだろう。通りの群衆に身なりのよい男性が目立つようになってきた。  そして男たちのなかには、クリスティーナに悪しき視線を向ける者もいた。  もともと町の支配層のなかには、若者や女性に絶大な人気を誇る聖女を、心よく思っていない者もいた。  彼らからすると、自分たち以外に支持を集める者がいるのが気に入らなかったのだろう。 (でも……)  そんな人たちでも、自分には護る義務がある。  囚われの身となった今でも、心に希望を持たせる務めがある。  そう信じ、折れかけた心を奮い立たせて毅然とした態度を保ちながら、たどり着いた元町庁舎。 「くくく……さすがは聖女さま、最後まで表情を崩さなかったな」  連行してきたクリスティーナを地下の牢獄に放り込み、イザベラが唇の端を吊り上げた。 「だが、調教が始まっても、そんな表情を続けていられるかな?」  そして小馬鹿にするように告げると、見張りの女兵士を残して立ち去った。 「調教は今宵からだ。覚悟して待っていろ」  冷たくそう告げて。  地下牢獄は、この建物が町の庁舎として使われていた頃からあったものだった。  目的は、おもに政治犯を閉じ込めておくため。  しかし町が帝国軍に占領され、庁舎が接収された今、何人かいるはずの政治犯の姿はなかった。  そのことを怪訝に思ったのは、わずかのあいだ。  首輪のリードを外されただけで厳重拘束を解かれず、鉄格子の奥で硬く冷たい床の上にうずくまるクリスティーナは、襲いくる苦痛で些細なことを気にしていられなくなっていた。  大きく開いた状態で口中に異物を押し込んで固定する、呪文封じの口枷を嵌められたことによる顎。両腕を束ね、1本の棒のように拘束するアームバインダーがもたらす肩。つま先立ちを強制するバレエブーツで歩かされた足。それらの痛みは癒されることなく、今も続いている。  さらに時間が経つうち、クリスティーナは新たな苦痛を感じ始めていた。  それは、尿意。 「ぅう……」  喋れない口でうめき、牢獄の片隅を見る。  そこには、石造りの四角い椅子。だがそれは、ほんとうの椅子ではない。  座面中央の溝に大小の排泄をするための、牢獄備えつけの便器だ。  だが便器の傍らに用意されているはずの、排泄したものを流すための水はない。それを溜めておく桶はあるのに、中身は空っぽ。  いや、拘束の身のクリスティーナは、水が用意されていても自力では流せない。そもそも、排泄のためロング丈修道衣をたくし上げることも、下穿きをずり下ろすことも不可能。  加えて、鉄格子の外に警護の女兵士がいる状況で、堂々と排泄できるわけがない。  彼女を呼び、排泄を手伝わせるなんてもってのほか。  少しずつ強くなってくる尿意に耐えるしかない。  とはいえ、いつまでも耐えられるわけではない。いつかはなんらかの方法で、排泄しなければならない。 (ですが……)  聖女として、いや聖女でなくてもひとりの若い女性として、憎き敵に排泄を請うことはできない。  そう考えて、固い石の床に座り込んで耐える。  そして顎や肩、足の痛みを気に留められていられないほど尿意が差し迫ってきた頃、ふたりの副官を引き連れてイザベラが戻ってきた。 「待たせたな」  警護の兵士がひとりがうやうやしく開けた鉄格子の扉から、イザベラが檻の中に入ってくる。 「そろそろ、拘束されっぱなしであちこちが痛み始めているんじゃないか? 治療してやろう」  先ほどまでは持っていなかった乗馬用の鞭をしならせながら、イザベラが教会からずっと引き連れていた副官のひとりを紹介した。 「あらためて紹介しておこう。私の副官、ドミニクだ。彼女は、軍付きの魔法師でもある」  すると、イザベラに促されクリスティーナの前に立ったドミニクが、なにごとかつぶやいた。 (これは、たしか……)  治癒魔法の呪文だ。ふだんのクリスティーナなら詠唱なしに発動できる初歩的なものなので、すぐにはそうと気づかなかったが。  ともあれ、確実に治療効果はある。その証拠に、各所の痛みが和らいでいく。   そして治癒が完了し痛みが消えたとき、治癒魔法を終了させたドミニクに代わり、もうひとりの女がイザベラの傍らに進み出た。 「こちらはエリーズ。元は帝国軍の教導部隊で格闘術を教えていた、格闘の達人だ。私は多忙ゆえ、日々の調教はドミニクとエリーズが担当することになる」  実のところ、イザベラの言葉は多分に嘘を含んでいた。  ふたりの女は、彼女が帝都でスカウトした性奴隷調教所の調教師である。  労働用の奴隷と違い、性奴隷は身体に傷があれば、商品価値が下がる。調教中に怪我をすれば、傷痕が残らないよう直ちに治療しなくてはならない。それゆえ、ドミニクは初歩的な治癒魔法を習得している。  また未調教の奴隷は、調教師に激しく反抗することがある。そんなとき大怪我させずに取り押さえるため、エリーズは格闘術を身につけている。  とはいえ、聖女として生きてきたクリスティーナが、性奴隷調教所の事情など知るわけがない。  おまけに軍服を着たふたりを、イザベラは自分の副官と紹介した。軍付き魔法師兼任と紹介されたドミニクに至っては、初歩的なものとはいえ実際に治癒魔法を使ってみせた。  そのため純粋なクリスティーナは、ふたりの正体に気づくことができなかった。 「それでは初日の調教を、見物させてもらうとしよう」  嘘を見抜けないクリスティーナにそう告げ、檻から出て警護の女兵士が用意していた椅子に腰を下ろすと、イザベラは尊大な態度で脚を組んだ。  治癒魔法は魔法分類学上、状態異常系に。さらに細分化すると、状態異常解除系に分類される。つまり、怪我や病気といった身体の異常な状態を解除し、回復させるのが治癒魔法という考え方だ。  逆に言うと、治癒魔法では異常な状態以外は回復できない。  厳重に拘束され続けたことによる身体各所の痛みは消えても、人体の正常な営みに由来する尿意はそのまま。  顎や肩、足の痛みがなくなったぶん、それはむしろ強くなったように思える。  そんなクリスティーナを見下ろし、ドミニクが命じた。 「立て」  とはいえ、アームバインダーのせいで腕が使えないうえ、異形のバレエブーツを履いたままでは、簡単に立てるわけがない。  おまけに、教会で履かされたときは椅子に座っていたが、今は床に直接座り込んでいるのだ。  だが、ドミニクは容赦がなかった。 「やろうとしてできないのは、まだまし。やろうともしないなら、それは帝国に対する叛逆とみなす。だが……」  そう言ってドミニクが唇の端を吊り上げたとき、鉄格子の外にひとりの娘が連れてこられた。  両腕を後手に拘束され、口枷を嵌められた娘が、檻の中のクリスティーナを見て目を見開く。 「んぅ、ううぅ」  不自由な口で娘がうめいたのは、クリスティーナの名を呼んだのか。 「おまえを捕らえたことを、軍司令部に抗議にきた娘だ。おまえが犯した罪の報いは、この者が受けることになる」  ドミニクが告げた直後、娘を連行してきた女兵士が、彼女を鞭で打ちすえた。 「ンぅううッ!」  目を剥いてくぐもった悲鳴をあげ、娘がガックリと膝を落とす。  そこで、床に座り込んだままのクリスティーナの後ろにしゃがみ込み、エリーズが耳元でささやいた。 「あれは、捕らえた敵兵を尋問するときに用いる拷問用の鞭だ。屈強な兵士をも悶絶させる鞭……かよわい娘が何発も受けたら、無事では済まないだろうな」  エリーズがそう言うあいだに、もう1発。  ビシッ! 「ンむぅううッ!」  悲鳴をあげ、娘が倒れ込む。 「イザベラ閣下が、娘たちには手を出さないという約束を破ったと思っているか? だがそれは違うぞ。あの娘は、閣下の決定に異を唱えるという罪を犯し、囚われたのだ。つまり、自ら罪人になる道を選んだ」  言われて、イザベラの言葉を思い出した。 『皇帝陛下と帝国正教会の神の名にかけて、私も私の軍も、罪なき女には何もしないと誓う』  つまり、イザベラは約束を違《たが》えていない。  娘の行為を罪としたことには納得できないが、それはこの町と帝国の法の違いによるもの。罪なき女に手出しはしないという一点において、イザベラは約束を違えていない。  狡猾な罠に嵌められたとは気づけず、クリスティーナはそう思わせられた。  そのうえ――。 「抗議にきた娘は、この者だけではない。ほかにも数十名が、帝国への叛逆の罪で囚われている。仮に、こいつが拷問鞭打ちで息絶えても……」  そこで、女兵士が娘を力任せに打ちすえた。  娘の粗末な薄い衣服が裂ける。衣服のみならず、白い皮膚も裂ける。 「んぅんむむ(わかりました)ッ」  いたたまれず、クリスティーナがくぐもって叫んだ。 「んむぅう(立ちます)ッ、ぅむぅンんむむむ(立つからもうやめて)ッ」  言葉にならない声をあげ、バレエブーツを履かされた脚に力を込める。  一度バランスを崩して倒れかけ、エリーズに支えられて立ち上がる。 「くくく……やればできるじゃないか?」  するとドミニクが、嘲るように嗤って告げた。

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