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「ハレ」と「ケ」


日本と日本人を理解する上で、柳田国男さんによって設定されたこの2つは物凄く大きな概念です。

日本人の行動や意識の根底には、この「ハレ」と「ケ」の考え方が大きく影響しています。


受験、仕事、平日と休日、古くは能や歌舞伎、今ではコミケ、アイドルのライブ等さまざまなイベント事・・・

漫画・アニメ・ゲーム等のキャラクター娯楽が日本でここまで成長できたのも、日々の勉強や仕事の合間(ケの時間)の、ひとときの脳を楽しませる娯楽(ハレの時間)だったからのように思います。


鞭打ち100回に対して飴1舐めの概念と言えば分かりやすいかもしれない。

仕事の日々と年行事に当てはめると、365回の鞭打ちに対して飴3.5舐め(盆・暮・正月と花見)みたいな。


日々の労働を耐える代わりにご褒美を細かく設定する、生活上のメリハリ・対比の概念と言ってもいいかもしれません。

遠出しなくても脳で楽しめる漫画、3時のおやつ、晩酌、人によってはタバコタイム・・


義務教育の期間から日本人は1日の間にも「ケ・ハレ、ケ・ハレ」みたいな概念で細かいガス抜きを行なって、うまくメリハリをつけストレスと付き合っている。


(ハレは儀礼的な意味合いがある特別なことを指し、日常はすべてケに該当するので、日常の息抜きをハレの概念で考えるのはちょっと意味合いが外れてしまうのですが、まったく間違いとも言えず、感覚的に近い所があるように思います)



宗教観も大きく作用していて、日本は基本的にあらゆるものに神が宿る「八百万の神」の概念が根付いてる風土の国。

石にも虫にも木にも雑巾にも、この国ではありとあらゆるものに神(魂)が宿っていて、それ故に無駄な殺生をしない、モノや生き物を大事にすると言う国民性。

一方で自分たちの生活を直接脅かす害虫や害獣には容赦が無いし、食用の動物で流通するものはなんでも普通に食する。


その代わりその行為の前後には、無宗教の人間でも「手を合わせて拝む(魂に対して恨まないで成仏してくれと願う)」と言う観念が浸透している。


そして日本には四季があり、四季を通じて様々な自然災害に見舞われる国。

地震もありますね。

四季折々の気候すら神の仕業と考えて、豊作を祈願したり地鎮にお供物をしたりするのは今でも全国各地普通に行われています。

毎年10月には全国各地の神様が出雲大社に集まると言われ、神無月と言われるくらい、古来から日本人はあらゆるものを擬人化して考えてきました。

神様が全国各地から居なくなって出雲に行く。

そのため出雲地方では神在月と言って全国からやってくる神様を迎え入れる月になっている。

なんとまぁ分かりやすい!

その道中で神様が立ち寄る遊場のような所もあったとか。

なんて親しみやすい神々の概念(笑


日本人はずっと昔から、自然の脅威すら神の仕業、あるいは自然そのものがそう言う形をしている動物のような存在と捉えて、現代で言うキャラクターストーリーと共に生きてきたわけです。


四季があり、地面が揺れ、台風、大雪に襲われる自然の脅威と共に生きる島国に住む日本人は、基本的に和を乱さないように、にこやかに黙って耐える性質ですが、その内面は燃えるような鬼の激情気性。


この激情気性をエネルギーに換えて、淡々と日々の仕事を遂行する。

日本人は基本的に物事への怒りのエネルギーで動く民族。

自分がそうだから、相手を怒らせないよう、失礼のないようにと考える。


日本人は仏の仮面を被っている事を理解できない海外の人は、表面的なにこやかさだけを見てしまうようです。

海外ではサイレント・ボムと言われる程、日本人は嫌なことがあってもその場で直接何かを相手に伝える事はしない。

日本人は「おもてなしにあたって、このくらい出来ててあたりめぇだろが!!」と言う、人を招くにあたっての失礼に当たる基準が異様に高い。

その場では和を乱さないようににこやかに振る舞って、帰った後にガス抜きする。


そして基本的に噂話が大好き。


身の回りのすべての事象にキャラ付けする八百万の神の風土と、ハレとケの概念、日本人の仏と鬼の2面性質・・

これらをまとめると、何故日本で異様にSNS、Twitterが流行したのかも見えてきます。


地面が揺れ自然災害の多い島国に住み、ハレとケの概念が根底にあり、お互いを監視していてみんなで盛り上がる祭りイベント事が大好き。

日々静かな怒りに満ち、誰かの噂話が大好きで、キャラクターストーリーが大好き・・

うーん、良くも悪くもSNSが流行る要素役満ですなw


(「ハレ・ケ」には「ケガレ」と言う概念もあるようですが、今回は取り扱いません。

一説には祭りは外から人を招く事でケガレ(気が枯れる)を補充する要素があったなど色々説がありますが、ケガレ(穢れ)は出産や葬式などの、現在の感覚で行くと出産に際しては安静にしないといけなかったり、葬式に際しては早く処置しないと腐敗して疫病の温床になってしまうのを気づいていた昔の人が、これらを「不浄・穢れ」と言う禁忌に設定して概念化する事で、分かりやすく人払いをしていたように思いますが、今回の話とはあまり関係しないので、またの機会に)




・ハレとケのキャラクター住居文化史

トイレ。人が生きる上で欠かせない設備。

下半身の筋肉を使う和便スタイルは尿漏れ対策に効果があったらしく、また、今のように水洗式ではなく、地面に埋めた瓶に貯める江戸の昔の長屋住まいでは、人々の糞尿を肥料として百姓に売ることで大家の収入源になっていたとか…


以前から、古い民家のトイレが何故「縁側の突き当たり」にあるのか不思議でした。

最近見つけたこの動画を見て、膝を叩くくらい「なんで縁側の突き当たりにトイレあるのか問題」で自分の中で繋がった事があったので、まだまだ仮説ですが記録に残しておきます。


↑今回参考にした本の1つ「日本の住まい」


日本の住居はいろんな文化を取り入れて形を変えてきながらも、手に入れたものは決して手放さずに現代まできました。


どんなに西洋化しても、玄関で靴を必ず脱ぐのもその名残の1つ。


例えば和室の謎空間「床の間」

これは当時の貿易で入ってくる美術品が縦長の掛け軸である事が多く、その展示スペースとして作られたそうです。

今に置き換えるとタペストリー展示スペースだったわけです。


ただ、昔は身分の差によって玄関が作れなかったり、和室の欄間や鴨居などの作り方にも制限があったりしました。

(他にも茶の湯や書院作りなど和室には色々派生や歴史がありますが、今回は割愛します)


今回は日本文化のハレとケの視点で、キャラクターたちの住む家をあれこれ考えます。

となりのトトロの「草壁家」

宮崎駿監督が幼少期に和洋折衷の家で過ごした記憶を反映しているためか、監督の作品には和洋折衷な文化構造の建築物が多数出てきます。


最新作の「君たちはどう生きるか」においてもそうでした。

(ちなみに「君どう」は封切り当日に観てきました)




草壁家の構造は古い百姓民家的構造で、ハレとケの概念が分かり易いです。


ハレ(晴)は、晴れ着とか晴れ舞台とか言われるように、特別な日、祝いや祭りなどの儀礼的な時間や空間を言います。

ケ(褻)は、普段の労働と休息の時間と空間を言います。


昔の民家は家の中にもハレとケの概念があり、それを紐解くと「2つの出入り口」と「縁側」が重要な意味を持っていた事が見えてきます。


昔の農家の家は「土間」が炊事やちょっとした仕事の場所で、その出入り口が「ケ」の日常の入り口。

土間から続く部屋は副業・内職をしたりするのに使われました。

普段最も活用するこのスペースが「ケ」の空間と言えるでしょう。


対して「客間」と言われる畳敷の和室は「ケの生活空間」ではなく、基本的に「来客用のハレの空間」だったわけです。


ここが日本の面白い所です。

すべての部屋は自分の好きにして良い空間なはずなのに、来客(当時は冠婚葬祭などの地域コミュニティの集まりの場にもなったのでしょう)に備えて、常時綺麗に保とうとする空間を意識の上で切り分けている。


今で言うと「おもてなし」と言う感覚が、自然と生活空間に概念として組み込まれていた感じ。


仏間や祖先の写真が客間や客間に繋がる和室に設置されていた理由がなんとなく理解できます。

日々において祖先に見られているという緊張感で自分達を律して、

ハレの日に多くの人が集まった時、祖先もそこに参加するという感覚があったのでしょう(草壁家には仏間が無い感じですが


生活空間である「ケの空間」と、来客用の「ハレの空間」を明確に分けるのが2つの出入り口、土間「ケの空間」の出入り口(現代で言う勝手口に近い概念)と、玄関。


そして実は縁側もその役割を果たしていたんです。


家のフチ(縁)だから「縁側」だとずっと思ってたんですが、来客交流の「縁の側」と言う2つの意味があった。

トトロの作中で、ばあちゃんがヘルプに来てくれる時も縁側でおはぎ食べてました。


そうやって家の構造1つ1つの意味を考えていくと、何故トイレが「縁側の突き当たり」にあったのかも理由がなんとなく見えてきます。


玄関・縁側が来客用の入り口であり、訪れた来客がそこに住む人の「ケの空間」(今で言うとプライベート空間)に干渉しないようにする配慮なのではないか。


現代ほどモノが多い時代では無かったとはいえ、普段の生活でも多少は「ハレの空間」である客間に荷物を置いていたはずなので、来客時にそれら荷物を「ケの空間」にいったん移動させて(ケの空間を物置化して)取り繕い、来客の動線と重ならないようにして、視線を襖で遮れば、体裁も保てるし失礼にも当たらないし、合理的だったのではないかと思うわけです(笑


トイレが縁側の突き当たりにあったのは、ハレとケで室内空間の意味合いが変化する境界線のグラデーションを考えた上での配置と構造だったのではないか。


古の日本の建築概念は、「ハレとケ」「公と私」の概念が家の中にあって、その空間の占有比率(他者が自宅の生活圏に入ってきて良いとする結界の比率)が、来客やイベントによって柔軟にグラデーションのように変化できる間取りと構造だったのではないかと考えます。


トトロを見ると井戸水ジャバジャバして、メザシ焼いて桜でんぶのお弁当を作りたくなります♡



次はサザエさんの磯野家。


トトロの草壁家と違い、都心近郊に残る日本の民家様式で、隣家と隣接する限られた敷地空間のため、玄関がハレとケを兼ねる入り口になっており、縁側は形だけになり儀礼的な機能をあまり果たしておらず、古来からのハレとケの概念が弱まってしまっているものの、家の構造を見ると旧来の民家の思想が強く残っているのが分かります。


玄関から入らず、庭を回って縁側から客間に入ると言う、従来の日本式アプローチで家に入ると、磯野家の住人たちが使用する「ケの空間(生活空間)」に干渉する事がほとんどないのが分かります。


トイレに立つ時も縁側ぞいに行って帰ってくるだけなので、住人に気を遣わないで済む。


和室・客間はぶち抜き16畳の大広間になり、仏間も床の間も完備して調度もバッチリ、祖先参加型の冠婚葬祭イベントスペースとして非常に優れた空間になります。


何でもかんでも細かく壁で仕切らない、柔軟性と流動性のある賢い構造。


盆暮正月に食卓を繋げて宴会とかやってると思うとワクワクします。


キャラクター創作をする際、こういう想像の自由度が高く出来る「箱(家)の構造」は個人的にとても大事だと思う次第。

この家を設定した方は非常に優れた感覚をもってらしたと感じます。


波平さんは、農家ではなく近代のサラリーマンなので、百姓仕事のための土間が必要なく、台所の土間はサブちゃんがたまにやってきて立ってるわずかな場所だけになっちゃいました。


この辺りも絶妙に時代を反映した「西洋化」を感じる点です。


今回の最後はドラえもんの「野比家」


自分は昭和期の、のぶ代ドラの時代しか知らないので、昭和ドラの間取りです。

個人的な感覚ですが、正直自分はこの間取りが好きではありません。

カビ臭く重苦しい、西洋式を意識した典型的な昭和期のあべこべ建物という感じ。


のび太の部屋は2階ですが、思えば21エモンのエモン君の部屋も「つづれ屋」という実家が営むホテルの最上階で独立しています。

藤子不二雄先生は物語を動かすために、子供部屋と親の住処を分けたかったのかも。


このお家には昭和期に生まれた謎の空間「応接室」があります。

作中で使われた回をほとんど見た事ないんですが、結局それがそのまま答えというか、作中で上手く機能できない間取り設定だったんだと感じます。


「応接室」「応接間」は、かつての「和室の客間」が形を変えた部屋と言うのはトイレとの位置関係から分かります。


客は玄関から入ってすぐ応接室に入り、出てすぐのトイレを使い、そして玄関から帰っていく・・

なんとも味気ない感じですが、日常と来客者の空間を分ける「ハレとケ」の概念で行くと、かろうじて「ハレ」の概念が機能しています。


部屋数が多く、それぞれに機能を割り振れる西洋式の個室の概念と違い、日本の狭い住環境には来客以外に活用する方法のない、勿体無い空間が応接室。


潰しの効かない、流動性の無い、隣接してる部屋とぶち抜きにもできないため大人数は無理・・ずっとハレの機能しかない限定的な個室空間。

最終的には書斎と言う名の物置という感じ。


カーペットにソファと言う、地べたに直接座る事を前提にしていない様式も問題。

そもそも靴脱ぐ文化圏で、靴下で歩き回る清潔な住空間、高温多湿でカビやすく、さして広くもない部屋にカーペットやソファを入れる事自体が日本には不向きなんですが、ここが西洋式に憧れ(かぶれて)なんでも取り入れた昭和の過渡期家屋を感じさせます。


基本的にベッドとソファは、モノの占有率が大きすぎて、日本の狭く素足で歩ける床が清潔な住環境には向きません。


ちなみにこの昭和期にあった板張りの応接室の壁、先日初代ガンダムを観ていたらビグザムのコクピット空間がめっちゃ応接室感あってフフッてなりました。

これも時代の残り香ですね。


今日、新しい家の設計でもう応接室が残ってないのは、使い勝手が悪く、生活様式の変化でかしこまったスタイルの来客が減った日本に合わなくなったのでしょう。


日本の住宅におけるハレとケの概念は「流動性・柔軟性、兼用」が肝のように思います。

普段は住人が日常生活に使えて、来客が来る時はすぐ片付けられると言う、部屋の役割を決めすぎない曖昧な公と私のグラデーション、兼用・使い勝手がポイント。


たとえば変身ヒーローや変身ヒロインも、常に変身後の姿で居たら話が進みません。

世を偲ぶ仮の姿(ケの姿)で、周囲に溶け込み、問題を解決する晴れ舞台でハレ姿になります。これも兼用と使い勝手。

30分放送のうち、変身してる時間は長くて10分くらい。


暴れん坊将軍も20:00〜21:00の60分のうち、45分はお侍の徳田新之助、20:45分キッカリに立ち回りが始まり、将軍の徳川吉宗になる。


勇者ロボも基本的に新幹線や重機や警察車両に化けて日常に溶け込み、物語を進行させ(ケの日常)、敵と戦う時は合体して、戦い専用のハレ姿になります。


娯楽においても30分や1時間のうちにも、ハレとケの概念が機能しています。


ハレとケの概念は、キャラクターにおいても、住居においても、その流動柔軟性・兼用が上手く機能するかが大事で、日本人の感覚的に面白いかどうかを判断する上で重要な概念。


野比家には応接室以外にも色々と窮屈な点があります。


2階に向かう階段があるため、和室が分断されてしまっており、ぶち抜きの大広間が作れない。

縁側は・・かろうじてそのように見えるものがあるものの、庭に出る時にサンダル履くための腰掛けくらいの機能しかなく、そこに来客の来る「縁の側」としての機能と概念はない。


実際昔のドラえもんを思い出しても、家としてはほとんど印象的な機能はしておらず、基本的にのび太の部屋が舞台のメインで起点。

一階の役割は、大体ママがイライラしてて、見つからないようにおそるおそる和室を過ぎる通過点でしかなった印象。


のび太の部屋の机の引き出しからタイムマシンで移動するか、2階の窓からタケコプターで飛んでいく感じ。

基本的にキャラクターが外に出ていく家の構造なんですね。


意図的にのび太を外に出すために居心地があまりよくない構造にしたのか、日本的なハレとケの感覚をあまり感じられない、閉鎖的な家の間取りです。


それ故に家を舞台としない、基本外で繰り広げる様々な冒険やストーリーを生み出せたのかもしれません。



・・・

これらの家は元々現実には存在しません。

作中で描かれるキャラクターの生活を見て、その機能を眺めることしかできませんが、住居には時代・文化が反映され、そこに「ハレとケ」の概念を持ち込んで分析してみると、住居というものの物語の中での役割が見えてきます。


人が多く集まる家は「ハレとケ」の概念がうまく機能している間取りや構造なのではないか。


実在の中古物件の間取りを見たり、自分で家を作る時、はたまた創作でキャラクターの家を設定する際、「ハレとケ」の概念で間取りを観察・考えてみるのも面白いかもしれません♡




・最後に

アニメ「ストリートファイターⅡ V 」と言う1990年代のアニメがあります。


この第一話でリュウがアメリカに住むケンによばれます。

ケンは大富豪マスターズ家のおぼっちゃんなので、家はスーパー大豪邸(アニメキャラの醍醐味の1つ、大富豪!)


ケンがカッコいいのは、金持ちという立場に甘えず、その環境をフルに使って格闘技に打ち込んでおり、リュウというライバルを大事にして、2人の修行時代の思い出も大事にしている事。


なんとケンは敷地内に2人の修行時代の稽古場まんまの道場を建てて(移築レベル)しまっているのです。


これがアメリカという異文化・異国の土地で、突然出てきた味噌醤油味のような馴染み深さを伴い、強烈なノスタルジーを感じさせると共に、ケンがいかに昔の記憶と格闘技を大事にしているかを感じて、好感度が第一話から爆上がりするワケです。


自分はこのシーンが好きで、たまに思い出して何度も観ています。


創作ってもちろん魅力的なキャラ、ストーリーが大事です。

通しで見て面白くないと見返そうと言う気になかなかならない。


それと同時に、本筋には関係ないけどたまらなく好きなワンシーンがあります。

アニメ内の建築物描写もまた、そのために繰り返し見てしまう程の好きなワンシーンになり得ると思う。


アニメや漫画は、いわば目と脳で体験する旅行や観光のようなものです。

キャラクターのフィギュアやプラモは思い出商品であり、

そのキャラの印刷物や造形物を見て、ストーリーやセリフやシーンを回想し、目で見てきた観光旅行を「思い出し」また観たいと思って原作を見るため、長期的な商品としての価値があるわけです。


キャラクターのオリジナルIPとは、究極的に言うと「キャラで旅行を企画し、それを楽しんでもらう事」と言えます。


しかし今は、キャラクターの要素や見た目だけを売る所も多くなりました。

それも商売の形として悪い事ではないですが、観光旅行として成立していないため、キャラの見た目に飽きたらもうお終いという、基本的にごく短命であると言う宿命があります。

キャラを喋らせたり演技させたりするのが如何に重要かよく分かります。


キャラの空想旅行は必ずしも壮大である必要はなく、別にエロでも構いません。

そのキャラクターを見て、シーンやセリフが浮かんでくる事がキャラクターオリジナルIPの条件と自分は思います。


自分が作っているものを見返しても、キャラが芝居せず、ただ立ってるだけのキャラはうまく発展していません。



キャラたちが芝居する舞台、建物もまたドラマを生むキャラクターなんですね。


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