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源義経ほど創作が先行してる歴史人物はいないと思う。

天狗との修行

五条大橋の決闘

一ノ谷の鵯越

壇ノ浦の八艘飛び

…等々

こういう創作はどの時代に、どういう目的で作られたのか、五条大橋の決闘にまつわる歴史的な背景を中心に見て行きましょう。

【五条大橋の弁慶との決闘】

源義経(牛若丸)の伝説の場面でも有名な一幕です。江戸時代には大量にこの場面の浮世絵が描かれています。

当たり前ですが、完全な創作です。

まず五条大橋は豊臣秀吉の命によって作られた橋なので、時代が合いません。

室町時代に書かれた伝記である「義経記」には、五条天神社と清水寺で弁慶と2回戦ったと書かれてます。まぁ伝記なので「義経記」も当然創作ですw

【江戸時代に創作された源義経】

源義経は歴史学にみれば僅か6年間しか歴史舞台にいません。出生や幼少期の話は分かっていません。つまりいきなりフッと出てきた無名な人物なわけです。

その人物像は一般の人々からしたら、感情移入しやすく、また英雄譚にしやすい人物だったわけです。

決闘の舞台が五条大橋に変更されたのは江戸時代に入ってからです。

当時、橋というのは異世界の出入口とされてました。そういう場所で小柄で神秘的な牛若丸と、鬼のような巨漢の僧兵である弁慶が戦うという対比が非常に映えるのです。

また上記で言ったように、江戸時代には浮世絵としても描かれる場面です。

橋は描くのが楽なんですよw(描く側の感想)

清水寺とか描いてたら描く方が大変です。しかも多くの見物人がいる中で戦ったと義経記には書かれてるので余計に描きたく無いですねw

だから五条大橋で決闘したという創作にされているわけです。

もっと言えば、弁慶という人物も創作です。義経記より前の史料である「平家物語」には弁慶のべの字も出てきません。

忠臣蔵と比べてみると主従関係、凸凹コンビ、悲劇的な最期など同じような設定が散見されます。

浅野長矩は源義経のように美男子で描かれるし、大石蔵之助は弁慶のように恰幅の良い忠義の男で描かれます。

また普通の武士がNo.2だとビジュアル的には映えないから、僧兵という設定を与えられたのだと私は思っています。

【判官贔屓と北上伝説】

一ノ谷の合戦の鵯越の逆落としも創作であると言われてます。

同時代の公家の日記である「玉葉」には鵯越の逆落としの話は出てきませんが、その代わりに当時平家の拠点であった福原京を背後から奇襲した多田行綱の話しが出てきます。

それが「平家物語」になると一ノ谷の合戦の鵯越の逆落としの話しがすり替わるわけです。

平家物語は平家叩きを目的とした物語なので源氏賛美や平家叩きが極端です。その中で源義経を平家を滅ぼした英雄に描いていったのです。

その後、源義経は兄である源頼朝との確執により奥州平泉に追いやられ敗死します。

この流れは史実でありますが、この悲劇的な結末が更に民衆による人気に火をつけました。

それが判官贔屓という言葉になったりしてます。

判官というのは、源義経が左衛門少尉であったこと、あるいは検非違使の少尉であったことに由来しています。

しかしこの判官という言葉は室町時代中期に出来た言葉だし、江戸時代初期にはすでに民衆にも名前として広まってます。

ここでも、後年に付けられた別名であることがわかります。

源義経は平泉から脱出して更に北へ逃げ、北海道へ渡り、更には中国大陸にまで逃げ、モンゴルのチンギスハーンになったのだという伝説まで膨らんでいきます。

これらが八戸藩の記録とかにも普通に出てきたりするので、如何に人々が義経を英雄視してたかわかります。

東北地方には義経にまつわる神社仏閣が50以上あります。

江戸時代の東北地方は飢饉などで大量の死者が出た地域でもありました。そういう中で、夢や希望を求めた人々は源義経という人物を英雄視したり、または神格化して拠り所にもしていたのではないでしょうか?

源義経に対する史実的観点とは別にして。(私自身は義経の自業自得だと思っている)

いつの時代でも、創作に求められるのは、夢や希望じゃないかと、いちクリエイターとしては思います。

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